< エッセイ >

私のボランティアとの出会い

ほどがやパソボラ元代表・市原昇著

2000年9月に「ほどがやパソボラ」の発足説明会が、保土ヶ谷区社会福祉協議会の計画により野村ビル13階の保土ヶ谷区福祉保健活動拠点で開催されました。
参加者は、保土ヶ谷区が行ったボランティア講座の参加者を中心に社会福祉協議会からの文書による呼びかけで16名の仲間が集まりました。私は、ボランティア講座は受けていなかったのですが、たまたま仲間に混じって発足説明会に参加できました。

その会議にオブザーバーとして、栄パソボラの代表杵淵さんが出席されました。当時はインターネットでパソボラと文字検索すると、各地にあるパソボラの活動状況を見ることができました。中には法人化されているパソボラも見られました。杵淵さんからは栄区の栄パソボラの活動状況の説明を受けました。受講生には、回数券とテキストを購入させて、各種のパソコン講座を区の施設を借りて行っていたそうです。

帰りがけに杵淵さんと話す機会があり、私が以前NTTの退職者の会でパソコン教室の講師を二か月経験していた事を話すと、あなたが居ればほどがやパソボラは私が手伝わなくてもやれますね。と言ってくれました。

 私がほどがやパソボラに辿り着いたのは、当時NTTの教室を辞めさせられて(テキストに書かれていない事などを教えていたので)毎日をインターネットで世界中の囲碁フアンと囲碁を打って遊んで居ることに虚しさを感じ、家の近くの坂本小学校の先生方にパソコンを教えることを思いつき、「ボランティアパソコン指導員」の名刺を作って小学校を訪ねて行きました。教頭先生の話では近々横浜市からパソコンが配備され、指導員も派遣されるとのことでした。

それではと、市の人材派遣センターに行ったところ「ここでは、イベントなどの開催時に登録者に日当を払って参加してもらいます。」とのことでした。ボランティアを希望するのでしたら社会福祉協議会へ行くことを教えられ、保土ヶ谷区社会福祉協議会へ電話したところ、来週パソコンボランティア希望者への説明会を行うので参加して下さいと言われました。その時が私のボランティアとの出会いの始まりでした。

 その後ほどがやパソホラ参加希望者16名が毎週夜間、野村ビル13階に集まって、今後の計画などを話会いました。活動拠点には区社協が用意したデスクトップパソコン1台がありました。当時会の世話人をやっていた和田さんと佐久間さんから私に会の代表就任要請があり、私がほどがやパソボラの初代代表になりました。

2001年1月に正式にボランティアの会としての届けを社協へ提出しました。
2001年3月になって、社協で予算が余って何台かのパソコンを買ってくれるのではないかと、期待をかけていましたが、その話は有りませんでした。その間も会員は、技能向上を目指して交代でパソコンの練習を続けていました。

2001年4月に受講生の第1号の方が現れました。半身不随の50歳代半ばの権太坂から杖をついて訪れた女性でした。町のパソコン教室で入門を断られて区役所に相談に行ったところ、まだ開設していないほどがやパソボラを紹介されて来ました。その方は右手だけで器用にキーイを叩いていました。インターネットの接続がないので、その勉強には社協の事務室のパソコンを数時間使わせてもらいました。
テキストは、私がNTTの教室で使用していたものをコピーして使いました。

ほどがやパソボラ発足当時から現在まで在籍して、ほどがやパソボラを支えてくれている方は次の五名の方たちです。
   敬称略
   飯塚有美・鈴木延佳・宮沢昇・飯原和彦・市原昇

ほどがやパソボラ発足後の詳細については、ほどがパソボラのホームページの
「あゆみ」のページに書かれていますので、御覧ください。

ほどがやパソボラは設立して七年が経ちました。その間に教室でパソコンを学んだ方が500有余人と活動拠点で多くの人達との出会いがありました。ボランティアをしていなかったら今頃はどんな暮らしをしていたかなーと、思ったりして、毎日に幸せを感じている今日このごろです。

2007/9/13記

私の1945年【昭和20年】

市 原 昇 著

私の戸籍謄本の出生地欄には、東京市牛込区神楽坂とかかれています。その頃我が家は神楽坂で中華料理店を営業していました。私が2~3歳の頃廃業しているので、私にはその頃の記憶はありません。母に聞いた話ですが、その頃野球の早慶戦で慶応が勝つと慶応の学生は、銀座へ飲みに行き、早稲田が勝つと早稲田の学生は神楽坂へ飲みに来たそうですその時は、多くの人で店が混雑するので店を閉めてしまったそうです。私も孫達に私が生きた頃の話を残してあげようと思い、60年前の出来事を書き残すことにしました。

【学童集団疎開】

1945年の正月は群馬県の山寺で小学校6年の同級生約60人と迎えました。1941年に始まった太平洋戦争の戦火を避けて、都会の学童の地方への集団疎開が1944年8月頃から始まり、私達も尾久駅から専用列車に乗せられ家族の見送りを受けて四万温泉の手前にある山寺へ、5年生以下3年生までは四万温泉の旅館が集団疎開先でした。山寺で迎えた初めての正月は、父兄の有志による餅つきがあり、甘辛く味付けした大根おろしをかけた餅を食べました。生まれて初めて食べたつきたての餅の味が忘れられません。地方にある親戚へ疎開した生徒も多くいました。

集団疎開先では村の小学校の教室を借りて授業が行なわれ、運動会も村の小学校の皆さんと一緒に行なわれました。1945年2月になると6年生は自宅に帰され、元の小学校に通い始めました。戦火も激しくなり、卒業式は行なわれずに卒業しました。後日一枚の半紙に印刷された卒業証書が区役所から郵送されて来ました。

【東京大空襲】

1945年3月10日の東京大空襲の当時、我が家は滝野川区田端町に住んでいました。我が家はまだ焼けていませんだしたが、母方の親戚が深川で丸焼けに遭い、父親に連れられて焼け跡の整理に行きました。途中橋の上では焼け焦げた遺体を避けて歩き、川の中にも沢山の遺体が浮いているのが見られました。親戚の焼け跡を整理している間、電車通りを焼け焦げた丸太を山積みにしたトラックが引切り無しに走っていました。帰りがけに電車通りで積荷を見て分かったのですが、積荷は焼け焦げた遺体でした。市内の80箇所位の所に多くの遺体を一度に埋葬したそうです。

その頃、夫を一人深川に残して千葉県へ疎開していた従姉が夫を探しに我が家に来ていましたが、遂に夫の消息が分からずに帰って行きました。一晩で十万人が亡くなったこの時点で戦争を止めていれば、広島や長崎で更に多くの人達を原爆で亡くさずに済んだのに、と誰かが言っていました。亡くなった方々のご冥福をお祈りします。

【我が家の焼失】

1945年3月頃に住み慣れた田端の家が区画整理(戦火を避けるために密集した人家を取り払う)に遭い、駒込駅の側に引っ越していました。私が地元の私立中学校へ入学式を終えた晩に我が家が焼夷弾爆撃で丸焼けに遭いました。当時家には家族七人と親戚の人一人が居て、燃え盛る家並みを潜って滝野川の高台に逃げて全員助かりました。三晩学校の体育館に寝泊りして、千葉県勝浦市の在にある父の生家へ引き上げました。

【田舎での生活】

私は、勝浦町立工業学校に転校しました。毎朝五時に家を出て興津駅まで六キロの道を歩いての列車通学でした。三年間弁当を作って送り出してくれた母親に、今は只々感謝の気持ちで一杯です。千葉県では、両親と妹の四人暮らしで、残りの兄弟五人は東京での勤め人でした。両親は、農家の手伝いに行って米や野菜を貰い、山から山菜を取っ来て町へ売りに行ったり、炭俵を編んだりの生活でした。

私も少年時代を田舎で過したため、田圃でドジョウを取ったり、川に鰻やハヤを取る仕掛けを置いたり、海に行っては潜って貝を採ったり、山へ行ってはメジロを捕ったり都会にいては体験出来ない遊びをして、生涯の思い出を残しました。

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